グラーグ(ソ連強制収容所)の真実 (1)

『グラーグ(ソ連強制収容所)の真実』(1)

相沢会長が、2012年9月「日露交流シンポジウム」でモスクワ入りした際、地元紙「ノーヴァヤ・ガゼータ*」のインタビュー取材を受けました。
「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙は、エリツィン基金とゴルバチョフ基金から後援を得、「グラーグ(ソ連強制収容所)の真実」という特集記事を数年にわたり連載しています。
2013年1月16日発行第4号掲載の特集に「サムライに刀を返せ!」という見出しで、このインタビュー記事が掲載されました。続く「外国の代理人たち」という見出し記事とともに、その意訳をご紹介いたします。
 (下の見出しタイトル画像をクリックするとロシア語原文のリンク先が開きます。)

*1993年創刊、週3回発行、発行部数約50万部のロシアのタブロイド新聞。
ソ連最後の最高指導者ゴルバチョフ氏が株主であり、プーチン政権に対する批判的論陣で知られる。アンナ・ポリトコフスカヤ記者をはじめ、2001年~2009年の間に所属ジャーナリスト4名が殺害されたことも有名。

サムライに刀を返せ!

相沢会長インタビューin Moscow

「ソ連軍が突如として国境を越え侵入し、その一週間後、われわれが駐屯していた街に部隊が入ってきた。
どうせソ連側に、武器、弾薬、被服を引き渡してしまうなら、一般の民間人にくれてやったほうがましだというので、司令部の窓から朝鮮人たちに被服や軍靴を投げてやった。」

「貨物船に乗せられたのは11月であった。異臭が漂う船倉にギッシリ詰め込まれたわれわれは、まともに眠ることもできなかった。
「ダモイ・ヴ イポーニュ」(日本へ帰国だ)言われるまま信じた。
三日目の朝、湾内にソ連の軍艦を何隻も目にし「ダモイ」(帰国)はやはり嘘だったとわかった。
 我々はクラスキーノの天幕張りの収容所へ連行された。」...
「我々は貨物列車に詰め込まれた。何故あの時に脱走をしなかったのか、今思えば本当に不思議なくらいである。しかし、脱走はとても不可能だったし、そんな勇気はもてなかった。
 酷寒だった。エラブガまでの「死の行軍」で何人か凍死した仲間がいた。また凍傷で手や足の指を失った者はいくらでもいた。
 ソ連の囚人列車と隣り合って停車したことがあった。我々は窓から顔を出している囚人にたどたどしいロシア語で聞いた。「どんな罪を犯したんだ?」が質問の趣旨であったが、驚いたことに囚人の一人は、「20ルーブル盗んで、シベリア送り15年の懲役だ。」と答えた。」

 「23日間の長旅の果て、我々が降ろされたのはキズネルという田舎の寒駅であった。その夜のうちに行軍が始まった。いたるところ白い雪で覆われ、どこが道かもわからなかった。私は父、母、姉妹のことを思い浮かべた。みんなどうしているだろう。不運にも捕虜という汚名を着せられて、トボトボとどこへ行くとも知れない旅路を続けている。これが戦争というものなのか。しかし、それは苦悩の終わりではなく、まさに始まりであった。行軍の三日目には、吹雪が特にきつくなり、年取った者、身体の具合の悪い者などが落伍し始めた。道端に倒れたまま起き上がれず、「放っておいてくれ、寝かせてくれ…」と言うのだった。」


 上記は、相沢英之氏の著書からの抜粋である。
相沢さんとの最初の出会いは一年前にモスクワで開催された会議(シンポジウム)に遡る。会議は、1945年8月、対日戦終結後にソ連に抑留された日本人の問題に関するものだった。様々な推計によれば、50万から70万人に及ぶ日本陸軍兵士が、スターリンの強制収容所(ラーゲリ)に送られたという。

 歴史のこの一ページは、終戦からすでに67年を経た今も、異なる解釈をもって扱われている。

 一般財団法人 全国強制抑留者協会の会長である相沢さんは、93年に及ぶ自身の人生のここ23年の間、「我々の歴史健忘症」(訳注:人間は戦争のような「歴史的な過ち」を繰り返してしまうという比喩)と闘うためにロシアを訪問している。

 歴史のこの一ページに関する筆者の知識は、ソ連時代の教科書で大祖国戦争(第二次世界大戦)の歴史を学んだ大多数のロシア人と同様、極めて漠然としたものでしかなかった。相沢さんと出会うまで。

 我々は、大祖国戦争に勝利した後も、部分的に対日戦が継続していたことを、 詳細抜きで教えられた。一方、1945年当時は18歳の青年で、航空学校から戦地へと追い立てられた著者の父は、授与された勲章の中から時折『対日戦勝記念章』を選び、私の両手に持たせてくれた。 真の戦勝であったのか、筆者には疑問であるし、父自身納得しきれていなかったと思う。何故なら、父の兵役中の最も印象深い思い出の一つが、戦闘行動ではなく、子供じみた遊び、ある日速成の中尉達が機体の代わりに地元のヤギを塗装したというものだったからである。

 93歳の相沢さんだけが、このシンポジウムで唯一の歴史の目撃者だった。

 相沢さんの開会の辞は、明瞭かつ外交的であった。後に自分自身の「生涯の」仕事と語る、定例となったこのモスクワ訪問も、すでに彼にとっては儀式の一部であるかのごとく外交的なものであった。しかしその後、インタビューに同意、通訳を介した相沢さんの応答は、そっけなく慎重なものだった。私は彼が、自己の運命に対し、いかに責任をもって向き合っているかを認識させられた。 運命こそ人間がこの世界とどう関わっていくかの試金石なのだ。少なくとも日本人にとっては。相沢英之氏は、ほぼ誰もが達成不可能と考える目的に向かって穏やかにかつ信念をもって行動している。そのことが私を感嘆させるのである。達成不可能なのは、日本側が補償に関する公式な立場を明確にしないことからも明らかだ。日本側がすでに歴史的不公正に対する請求権を放棄しているにもかかわらず、相沢さんは主張し続ける。

 それも彼の権利である。

 (相沢さんは「戦時捕虜」という用語を絶対に受け容れない。なぜなら日本人は投降したのではなく、天皇の詔勅により武器を置いたのだから。)その日本人抑留者の問題に取り組んでこられた相沢さんも、すでに年金生活者である。過去には、国務大臣経済企画庁長官という要職を含め、長年にわたり官僚としても成功の道を歩んでこられた。


ー「近年どのようなことを実現できましたか?」 私は彼に問いかけてみる。

ー「日本人抑留者に対する、ラーゲルに収容し強制労働させたことへの謝罪の表明と賃銀の支払い補償を我々は要求してきた。第一の要求は、エリツィン大統領が、皇居で謝罪を表明したことで実現できた。しかし補償に関する肯定的決定は、未だになされていない。この問題について私はゴルバチョフとも話をした。ゴルバチョフは日本人抑留者名簿の提出を要求したので、我々は国立軍事公文書館を訪れ、約40万人分の名簿を見つけ、コピーをロシア側に送った。しかし、公文書館に、すべての日本人抑留者の書類が保管されているわけではないことを理解すべきだ。」

「さらにゴルバチョフの時代、12基の慰霊碑建立に取りかかることができた。ラーゲルで亡くなった日本人の埋葬地に捧ぐ小規模慰霊碑ではあるが。ゴルバチョフとは、ロシア側によって、慰霊碑が適切な状態に維持管理されることに合意した。現在のプーチン大統領とは、まだこの論題についての対話が実現していない。」

ー「控え目に申し上げても、ロシア側は、これまで長年、皆さんに金銭的補償を要求する権利があるなどと認めようとしていません。実現可能とのご展望が?」

ー「日本人には要求する権利があり、我々は要求を続ける。正義は我々の側にある。ロシアは、わが国民の労働に対し、賃銀を支払わねばならない。」

ー「しかしですね。長年、皆さんは、要求に対してロシア側から一度も肯定的な反応を得たことがありません。皆さんにとって、これはもう、お金というより原則の問題ではないですか?」

ー「お金も必要だ。現在、まだ9万人の日本人抑留体験者が生存している。最年少で 87歳。日本人は長命だ。...これらの人々に対し正義を回復する必要がある。そして、我々がラーゲルへ送られた時、ソ連軍に引き渡した私財を返還してもらいたい。」

ー「これだけ年数がたった今でも本当にソ連官憲に没収された私財が、返還可能だとお考えですか?」

ー「私は個人的に自分の刀を返してもらいたいと要求した。武士の刀だ。 私は将校だったから帯刀を許されていた。しかし刀は没収されたままだ。」

ー「今でもご自分の刀を見分けることができますか?」

ー「できる。名工の作による刀だから。」

ー「ご自身の活動を引き継ぐ後継者はいらっしゃいますか?」

ー「シベリア抑留の労苦を体験した人間はやがてこの世を去っていく。必然的に若い者に事実を引き継がざるを得ない。若い者にはこの問題の深刻さは完全に理解できないかもしれない。自ら体験していないのだから。しかし、元抑留者が生きている間にやらなければならない。」

ー「長年に渡り、ご自身が勝ち目のない戦いに挑んでいる。という意見を耳にされたことはございませんか?さらに絶望的なことにロシアは、今日に至るまで、スターリン弾圧の犠牲者である自国民に対してさえ、補償を行っていないのです。」

ー「そう。確かにそのような意見もある。いろんな種類の人間がいるように。 しかし、貴国の政治家達は肝心なことに耳を傾けるべきだ。仮にソ連と戦争を始めたのが日本で、我々は軍事捕虜であったと納得ができるのであれば、我ら同胞が、ラーゲルへ送られたことも正当化されるのかも知れない。だが我々は天皇陛下の詔勅により武器を置いたのだ。もしこの詔勅がなければ、我々は死ぬまで戦っていただろう。しかし我々はソ連と一戦を交えることもなかったのだ。」


... 数ヶ月後、相沢さんがご自身の著書を送ってくださった。私はその一部を読み、抑制の利いた記述が翻訳によるものでなく、安っぽい脚色も許さない著者の流儀であることに気づかされる。それは彼の抑留の記憶がもつ、あまりにも大きな価値ゆえ。


 「Aラーゲルの食事は特に酷かった。2、3ヶ月の間に平均10キロ以上痩せた。我々は、「八時間労働制の確立」「糧食ノルマの厳守」を要求すべく代議員会を組織した。しかし近藤少佐がクーデターの責任者ということで即時逮捕された。

 ...冬に、我々は、伐木運搬作業に従事した。馬もおらず、代わりに自分たちで重い材木の橇を曳く。多くの戦友がこの重労働で亡くなった。夜、冷たい寝床に気を失ったかのように倒れ込む。ただ、豚のように、何も思わず、何も感じず、寝入るのであった。」

 「Aラーゲルを語る時、ジュック中尉を除外することはできないであろう。彼は我々の監督者であり、ラーゲルでは誰よりも恐れられていたが、私にはいつも「ガスパジン(英語のミスター)・アイザワ」と敬称で呼びかけた。ジュックは一番よく顔を見たソ連の将校の一人である。ラーゲルでは一時、南京虫が横行していた。ある日壁面に南京虫を潰した跡を見つけたジュックは、「ソビエト連邦の財産を損壊したのは誰か?」と怒鳴り烈火のごとく怒った。犯人は間もなくわかったが、重営倉に入れられた。我々は南京虫もたやすくは殺せないのであった。」

 「あるとき私は病院に入れられた。何より心を痛めたのは、そこで毎日のように死者が出たということである。毎日二人から五人、一冬で、800人にものぼった。私は、食べる力も潰えて、死に至った何人もの人々を目撃した。」

 「病院から、私はカザン監獄の独房に移送された。銃殺されるのでないか、どんな酷い拷問を受けるのではないかと思い悩み、精神的に追い詰められた。いっそ気が狂ったほうがましではないかと思った。煌々と眩しいランプを向けられ、繰り返し同じ質問で攻められ、毎日朝まで尋問は続いた。」

 「我々はラーゲルの中で暮していたから、一般のソ連人の暮しについて知るところは少ない。しかし若い男は戦争に狩り出され、残っているのは子供と老人と女性という状況をみれば、どれだけソ連が大変な消耗戦を闘ってきたかはよくわかる。ラーゲルの周りを駆け回っている子供達が、「大きくなったら捕虜になるんだ」と言っている。ラーゲルの日本人に肉や砂糖が配給されていることを知って羨ましかったようだ。子供達は、我々が残したニシンを貪るように食べ尽くすのであった。」

「ラーゲルから生還し何年もの間、夜中に幾度となく、冷たい汗をかいて目を覚した。再び貨物列車で、エラブカへ連行される夢を見たのであった。」


(コラムニスト: ナターリア・チェルノーワ)

(続き)次のページへ