グラーグ(ソ連強制収容所)の真実 (2)

『グラーグ(ソ連強制収容所)の真実』(2)

外国の代理人たち

関東軍の投降

 ロシアでは今「人権擁護団体」が「外国の代理人たち」 (訳注:スパイと同義語) と呼ばれる。スターリンの時代には、ソ連国内で外国人として目に映る者は誰であろうと、まずそのように呼ばれた。

 すでに明らかになっているように、グラーグ(強制収容所)の犠牲者には、ソ連市民だけでなく、数十万人の外国人も含まれる。それは、予期せずスターリン大粛清の犠牲者となった多数のコミンテルン(ならびにソ連領土内でマークされた外国人共産主義者たち)である。またバルト三国ならびにポーランド東部地域に関するモロトフ·リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)秘密議定書に従ってソ連占領下にあった住民たち、近代化実現のために、1920年~30年代に訪ソした多くの外国人専門家たち、などである。

 「西ウクライナと西ベラルーシの解放」が進められ、1939年9月、捕虜となった2万人以上のポーランド将校が(カティンの森やカリーニン [訳注: 現在のトヴェリ]、ハリコフで)虐殺された。それは、グラーグ(強制収容所本部)にたどり着く以前のことであり、戦時捕虜用のラーゲリ(収容所)に送られた後のことであった。


 あまり明らかにされていない事実であるが、グラーグの囚人には、関東軍、1945年8月に「敗北」した数十万の日本兵がいた。強制奴隷労働という、グラーグによる搾取を伴った長期間拘留を正当化するため、ソ連側により、戦争捕虜という地位を与えられた。

 では『日本人』強制収容所が実在した、経緯と理由を理解する上で重要な、いくつかの史実を検証してみよう。


 1941年4月13日、日ソ中立条約が締結された(4月25日発効)。条約第2条には、「締約国の一方が…第三国よりの軍事行動の対象と為る場合には…他方締約国は…中立を守るべし」と規定されている。ドイツの同盟国であった日本が、条約の規定を遵守していたことは既知のとおりである。公平に見ても 過去に『北への行軍』(訳注:ソ連侵攻)計画が進められていたことは認められる。が、スターリングラード攻防戦以降、それも真剣には検討されなくなっていた。

 1941年末にドイツ軍がモスクワ郊外で立ち往生していた際、ソ連司令部は首都防衛強化のため、極東戦線に配備していた装備の充実した精鋭部隊の西への移送を決定できた。日本がもし(当時、人口約4.5億人を擁する面積4.2百万平方キロメートルの領土を占領せんとする)軍事政権の絶頂期で、ヒトラーの要求に応じ、対ソ極東戦線を開戦していたらどうなっていたであろうかは、想像に難くない。

 日本と違い、スターリンは日ソ中立条約の規定を遵守しなかった。1945年8月9日、ソ連が対日参戦布告。ところで、対日参戦は連合国側による強い要求であったが、(1945年2月)ヤルタ会談の最終議定書には、「ヨーロッパに於ける戦争が終結したる後、二月又は三月を経て」対日戦争にソ連が参加すると記録されている。このような条件下にあって、ソ連は対日参戦の合法化を試みた。1945年4月5日に、ソ連は「日ソ中立条約」の破棄を通達する。しかし、中立条約の条文により(条約は、締結により5年間有効であり、条約を破棄するためには、期間満了の1年前に通告する必要がある。すなわち通告の1年後に失効する。とされ)、1946年4月25日以前には条約の破棄はできない。つまり、ソ連は失効の8ヶ月以上前に条約を破棄したことになる。

 満州に駐屯していた関東軍の敗北は、ソ連とドイツ軍の戦争と比較するまでもなく、まさに「一方的敗戦」であった。ソ連軍の急速な侵攻に対する日本兵の抵抗は、極々特定な地域に限定されていた。 これは(8月15日に発出された)天皇陛下の「終戦の詔勅」が、間に合わないか届かなかった場所に於いてである。損失はもちろんあったが、ソ連側のそれは、約1万2千人と比較的小規模であった。日本人は、約9万人が亡くなり、守備隊のほとんどは、戦わずして降伏した。関東軍の兵士約60万人が、武器を置き、囚人として捕えられた。

 8月23日には、50万人に及ぶ兵士と将校が、スターリンの下した決定 №9898 により、ソ連国内のシベリアやその他地域に移送された。これは、1945年7月26日、米・英・中が調印した、日本の無条件降伏に関する「ポツダム宣言」の条項にあきらかに矛盾している。その規定は、日本兵の運命を左右するものである。(ソ連は、対日宣戦を布告した8月8日にポツダム宣言への参加を表明。)宣言の第9項には、「日本国軍隊(「軍隊」であって「戦時捕虜」ではない)は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰…の機会を得しめらるべし。」と規定されている。そして実際に1946年、戦後、アメリカ人と中国人によってそれは実行された。一方ソ連は、自主的に投降した日本人を捕虜として身分処遇し、グラーグ建設へと移送した。

 日本の兵士と将校は、千名程度からなる五百の大隊に編成され、隊列を組み徒歩で、貨物列車で、そして貨物船で、満州からソ連領内へと移送された。主にハバロフスク地方、沿海地方、アルタイ地方、クラスノヤルスク地方、イルクーツク州、チタ州(訳注:現在のザバイカリエ地方)、アムール州、ブリヤート共和国などソ連の30地域に配置され、ソ連内務省戦争捕虜収容所本部に収容された。ソ連刑法第58条「反ソ活動」で有罪判決を受けた日本人は、さらに管理の厳格な二か所の収容所に送られた。飢餓、病気、重労働による日本人死亡者の正確な数は不明であるが、情報ソースによって、8万人から20万人といわれる。

 強制収容所に送られ「社会主義建設」のための労働を強いられた日本人生存者は、自らを戦時捕虜とは認めず、(自発的に武器を置いた)抑留者であると主張。そのため、奴隷労働に従事させられた年月に対しての補償を要求している。 戦時捕虜に対する賠償はなされないから。


(「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙 副編集長: アンドレイ・リプスキー)

前のページへもどる